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今から900年昔、平安時代、日田地方を治めていた大蔵永興(ながおき)にそれは力持ちの永李(ながすえ)という息子がおったげな。
背丈は2m以上、相撲を取らせれば負け知らずで、みんなから鬼太夫(おにたゆう)永李と呼ばれていましたが、やさしく正義感あふれる少年でした。
16才の時,京都の相撲全国大会に、永李は日田地方の代表として、京都へ向かい、太宰府の手前の小川にさしかかったころ、川原で遊んでいた童女が近寄ってきました。童女は、「良いことを教えましょう、この相撲大会で一番の強敵”出雲の小冠者(こかんじゃ)は全身鉄の皮膚ですが、唯一カ所だけ額の上に柔らかい肉があるから、それを押しなさい」と童女は自らの額を右手で押さえた。
「それというのも母親が妊娠中に、”鉄のように固く強い人間に育ちます様に、その代わり、私は毎日鉄の粉を食べ、好きなウリを食べません。”と出雲の神様に願かけをしました。しかし燃えるように暑い夏の盛り、熱い砂鉄が喉を通らず、とうとう母親は、約束を破って、一度だけ好物の甘ウリを食べたので、鉄の男、小冠者も額に一寸(3.3cm)程に円く柔い肉が残ってしまいました。そこを強く押すしかありません。相撲の節会の当日、白鳥が西北の空に現れ、額を押す時期を教えるでしょう。」
とうとう決勝戦。出雲の小冠者は色浅黒く眼光鋭く、身体じゅうが力瘤のかたまりで、身長は低く永李の肩くらいしかないが、胸が厚く、大地から生えてきた大木のよう、動作も機敏、技に詳しく、特異技は相手の腹を蹴りあげ、何人も蹴り殺してきたのです。
さながら龍と虎の戦いといえるような様子でした。
西北の空に白鳥が飛ぶのを見て永李は童女の言葉を思いだし、そうだ、と、苦しい中腕を伸ばし、下から、小冠者の額の三寸程の白い部分を押しました。
すると、どうでしょう、小冠者は突然苦しみ、力が急に弱くなっていきました。永季はさらに額を力いっぱいに押し続け、小冠者のはとうとう額が割れ、血をタラタラ流しながら、息絶えてしまいました。
永李は、やっとの思いで、強敵出雲の小冠者を倒し、ついに日本一の相撲取りになりました。
永李は、天皇の御前で「私の今日あるのは日田の氏神様大原八幡宮のおかげ。願わくば日本一の学者の筆跡を得て奉納したいのです。」と申しました。
天皇は永李の欲の少ない神を敬う気持ちを賞賛され、日本一の書家大江國房に”大波羅野御屋新呂(おおはらのみやしろ)”と書かせた額を贈られ、今でも、その額は大原八幡宮にあります。
永李はこれ以降49才まで、35年間にわたって日本1という相撲の記録を作ったのです。日田に帰る途中、発熱し、小石原峠の山中で息を引き取りました。
踊りや謡曲にも造詣が深く、中央の文化をいち早く日田に持ち帰り、文武両道にわたって日田の発展のために指導者として働いた永李を、日田の人たちはいまでも”日田殿(ひたどん)”と呼び、尊敬と畏怖の念をこめて、親しんでいるのです。
●日田どんゆかりの地めぐりコース
1、慈眼山永興寺(ようこうじ) 永李が毘沙門天の仏像を寄贈した。
2、その前にある日田神社(土俵もあり、歴代の関取が寄進した、石柱がたくさんあり、中津出身の名横綱双葉山も横綱になって、奉納の土俵入りを披露しました。記念の奉納試合が行われる。)
3、大原神社(永季がすもう節会で優勝したときに、額を奉納した)
4、前津江村大野老松天満社旧本殿
大原神社の本社裏手に日田どんの祠がありますので、それにお参りして、大原茶屋で花てぼ弁当をお昼にお召し上がりになるのもなかなか風流ですよ。(できれば予約したほうがよい)
慈眼山永興寺は寺村さん(22−5560)という方に連絡が必要だそうです。ながめが良く日田市内を一望できるので、眺望もお楽しみください。そこに芭蕉の句碑もたしかありました。
日田どんというお菓子もあります。市内の松浦菓子店(隈町)ではきさくな松浦さんがしっかりと説明してくれます。 |